『死ぬのを楽しみに生きると人生の質は最高になる』という本を読みました。
著者は成瀬雅春さん。サブタイトルは「ヨーガとヒマラヤで掴んだ人生の極意」とありました。
立花Be・ブログ・ブランディング塾マスタリープログラムで一緒に学んでいた難波江俊紀さんにプレゼントしていただいた本です。
自分で買わないのに、手元に来る本というのは、何らかの意味があると思い一気に読んでみました。
そして、「どういう生き方をすればいいか」=「どういう死に方をすればいいか」であることを受け止め、「死ぬ」ということを怖れず、ちゃんと向き合っていこうと思いました。
と言っても、私は今、病気とかではなく、どちらかと言えば100歳まで長生きするんじゃないかと能天気に考えています。
でも、人の寿命は誰にもわかりません。
100歳まで生きてもいいし、明日死んでしまっても大丈夫なように生きていたいというのが私の理想です。
ただ、口ではそんなことを言っても、実際には「突然」に対する具体的な準備は全然できていません。
つまり、人間は必ず死ぬというのに、自分は「まだだろう」と勝手にその時期を先延ばしにしているのです。
以前飼っていたポメラニアンが10歳で突然亡くなったとき、呆然となりました。
かなり長い間、現実が受け止められなくて、「なんで平均寿命が16歳なのに10歳で死んでしまったんだろう、何が悪かったんだろう」とずっと嘆いていました。
いつか死ぬということはわかっているのですが、自分の予想を当てはめて考えてしまうのです。
人間もそうですよね。
平均寿命はあくまでも平均であって、自分がどれに当てはまるかなんてわからないものです。
だから、「いつかやろう」なんて意味がなくなることがあり得るのです。
祖母や父が亡くなった時は、年だから仕方ないと思いましたが、幼馴染の親友が亡くなった時は悲しくてたまりませんでした。
今でも会いたくなります。
乳がんが再発して、抗がん剤治療をしていたので体調がすぐれないことも多く、私は会いたくてたまらなかったけど、結局会えませんでした。
ずっと一緒に過ごしたかった。
重い病気になると自由に動くこともできません。
亡くなった親友はやりたいこともやらなければならないこともいっぱいあったと思います。
「いつかやろう」「いつか行こう」「いつか会おう」
そんなことを言っていられない時が必ず来ます。
終わりがあることは悪いことではないと成瀬さんは書いています。
むしろ終わりがないと大変なことになると。
それもそうですよね。
何事も終わりがあると思うから、それまでしっかりやろうと思えるのです。
100歳を過ぎて、それこそ植物人間になって、ずっと心臓が止まらなかったら、一体どうなるのでしょう。
家族はどうしたらいいのか、困ります。
自分の持ち物はすべて、死の瞬間に自分の手から離れます。
死の瞬間に自分から離れないのは、「経験」であり「意識」です。
素晴らしい経験を積んでおけば「素晴らしい死」を迎えられます。
「死」を経験していないのでピンと来ないとすれば、寝たきりで動けなくなった時で考えてもいいと思います。
私は父が2年間喋れない、食べれない、寝返りも打てない状態で寝たきりでした。
なんども誤嚥性肺炎を起こし大変でした。
痰も看護婦さんに吸引してもらわなければならないほどです。
そんな時、ベッドで考えることは何だったのでしょう。
できることなら、楽しかった思い出がいっぱい出てきたらいいですよね。
そして、家族や友達がいっぱい会いに来てくれたら嬉しいと思います。
人生の最後をどんなふうに過ごせるかって、重要です。
出来るだけ「やりたかったこと全部やれて楽しかった」「ありがとう」って言いたいですよね。
今のことや目先の幸福だけにとらわれて、大切なことを見失ってはいけないと思います。
「いつかやろう」「やりたい」って思っていることは、きっと自分にとって重要なことなんだと思うのです。
そうでなければ、すぐ忘れてしまうから。
ずっと忘れず、いつか・・・と思っていることを「すぐやる」癖をつけておけば、いつ何が起きても残念なことにはならないはずです。
自分で締め切りを作って、やり終えてスッキリするのがいいと思うのですが、いかがでしょうか。
私自身も気になることは「すぐやる」ようにして、いつも楽しく生きていきたいです。
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