私は使わないモノを捨てることができます。
まだ使えるモノであっても、高かったモノであっても、もう役割が終わったのだと思って感謝して手放すことができます。
中には全然使うことなく、捨てる失敗もあります。
そんな時も、心痛めながら、捨てることができます。
そうしているうちにだんだん、捨てられないと言う人の気持ちがわからなくなってきてしまいました。
溜め込んでいるのは脳がフリーズしている状態
溜め込んでいるのは、自分の脳が処理能力を超えてフリーズしている状態だと思うのです。
この部屋のようにぐちゃぐちゃだった時、私は精神的に追い詰められるくらいストレスいっぱいでした。
自分では気づかないくらい疲れていたのだと思います。
モノを手放すのは、執着を捨てること
たくさんのモノを手放すことは、執着を捨てることでもあります。
自分が頑張らなければという気負いも余計なものでした。
何も持たずに産まれ、何も持たずに死んでいきます。
そこではモノは意味がなく、大切なのはたくさんの楽しい思い出とそばにいてくれる人です。
私がなぜそう思うようになったのか、お伝えしたいと思います。
筋ジストロフィー症との出会いから学んだこと
私は病弱養護学校に勤めていたことがあります。
病気のために入院している子どもたちが通う病院併設の学校です。
そこで重度の障害をもつ子どもたちと出会いました。
なかでも筋ジストロフィー症候群の子どもたちから学んだことが今でも心から離れません。
筋ジストロフィー症候群には、現在でも有効な治療法がありません。
3歳頃から転び始め、小学生の時に歩けなくなって車椅子生活になり、20歳くらいで寝たきりになります。
今は医療が発達し、心肺機能を補う装置のおかげで、少し長く生きることができるようになりましたが、それでも多くは30歳くらいで亡くなります。
担任した生徒を卒業後もずっと見守り、最後まで見届けました。
私は、自分が見えない力で生かされていると感じています。
生きるとか死ぬとかは、自分で決められるものではありません。
「死ぬ」とか「死ね」とか「死んでしまいたい」とか「死んだほうがマシ」とか、言っちゃいけないと思います。
一番辛いのは、身体はまったく動かないけど、意識だけはしっかりしていて、自分の運命を受け入れざるを得ないなかで生きている人たちです。
私の父も2年間、意識はしっかりしたまま、喋れず、食べることができず、動けず寝返りすらできませんでした。
自分が同じ状態になったら一晩だって耐えられないと思います。
どんなに苦しかったことでしょう。
筋ジストロフィーの人たちは、それに耐えながら生きているのです。
指先しか動かせなくなった人にとってスマホは素晴らしいコミュニケーション手段でした。
瞬きの合図で意思を表す人もいました。
パソコン技術の最先端を見ました。
「死」と向き合った時、本当に大切なものは何かがわかると思います。
家族がそばにいてくれる、それ以上のものは何もないと確信しています。
さいごに
そんなわけで、私はモノには魅力を感じません。
生きていくために必要なモノは大切にしますが、それ以上に持つ必要を感じません。
ボールペン1本にしても、使えなくなったら次のモノを買えばいいと思えます。
ただ、自分が落ち着く家や庭、時々、家族と一緒に食べるための食卓や食器などは幸せの素で大切です。
そして、自分が笑顔でいることがきっとみんなを一番安心させることができると信じています。
家族や友達、みんなが笑っていたら、私もとっても幸せです。
自分にとって何が幸せかがわかってしまったので、私は思い切ってモノを捨てられるのだと思います。
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